はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

しんどい

 最近生活してて、しんどいなって思うことが増えたような気がする。たまに、ふっと胸が締め付けられて、気分が落ち込んで、ああしんどいなってなる。生きてることがしんどい、とまで言ったらあれだけど、まあ人と関わることがしんどいわけです。

 欲張りだから、与えられた、偶々手に入ったものに対してそれ以上を求めてしまうんですね。そうしたら、全部なくなってしまうことなんて、今まで生きてきてそれこそ何回も学んでいるのに。一番近くにあったものさえ、零れ落ちてしまっているのに、今更なあという気持ちがある。

 

 しんどい。気がついたら大人になってた。そういえば、大人ってなんだよって近頃よく思うんですね。思春期っぽいけれど。たぶん精神が幼いんでしょうね。で、大人ってなんだろうなあ。自分の尊敬できる人を思い浮かべてみると良い、それがあなたの思う正しい大人の姿なんだ。正しさなんて、いく通りもあるんだよ、君は君が思う正しい大人になればいい、なんて言ってみる。全部嘘っぱちなんですけどね。なんとなく、わかったようなことを言う癖があるから人に飽きられるのかなあ。

 納得して生きる、平気な顔して生きる、どうしてそんなことができるのかわからないこともあるらしい。僕もよくはわからないけど。

 知らない大人に怒鳴られて、世の中には見ず知らずの人に暴言を吐く人もいるのだなあと知りました。叱る人、怒鳴る人、わかったような顔して説教する人、諭す人、全員嫌いです。そこに発生するエゴというか、一時的なんですけど、私はお前より立場が上なんだぞみたいな感情が凄く嫌いなんですよね。だから、僕はそういうことしない人になりたいけど、無理だから誰とも関わらないようにして生きていきたいなあとか思うわけで。

 でも、やっぱり1人は寂しい。誰かと一緒に歩くこと、誰かと話をすること、それはきっと楽しいことなんですよね。でも、関わりすぎると自分の醜さが全面に出て離れられるんですけど。

 世の中思っていても言わない方が上手くいくことが多いなあと思った昨日でした。「美女と野獣」おもしろかった。

 今日は服とか買ったので、またお出かけしてみたい。

 

 楽しくいきましょう。書きたいことが多すぎるので、そのうちエッセイかエッセイ風の小説とか書くかもしれない。

 

煙草の話

 まずはじめに僕は喫煙者です。喫煙歴は言わないです。喫んでいるのは主にピースかゴロワーズです。両方とも6ミリのやつ。程よい甘さ。

 どうして煙草を喫むようになったかというと、まあ勧められて誘惑に負けたんですけれど。ダメですね、あれは。飲み会の席だと、煙草のテーブルだけは一気飲みとかしないでも別にみたいな空気が一応あって、そういう飲み会に参加しているうちに気がついたら毎日すぱすぱするようになってしまった。

 煙草を吸うという行為は酷く惨めな行為だと思う。昔はどうだったかとか知らないけれど、少なくとも今の時代は煙草を吸うなんてアウトローみたいな空気があって。禁煙しましょう、ナチュラルオーガニックばんざーいみたいな雰囲気で街中が溢れかえっているように思われる。吸っていたら通行人から嫌な目で見られるし、警察には身分証を出せと言われるらしいし、服は臭くなる。口臭も臭くなる。一つとしていいことがないように思う。つまり、煙草を喫むという行為は惨めなのである。

 ではなぜ、煙草を吸うのか。カッコいいから、という理由はもちろん当てはまる。これを否定する喫煙者は、カッコ悪い。実際男で煙草を吸い出したやつなんて、大なり小なり格好良さを求めていたに違いがないのだ。時代の波に抗うような格好良さを求めているのだ。実に反社会的だと思わないだろうか? 思わないな。考えるのは止そう。

 自分が煙草を喫み出した原因について考える。まず友達が吸っていたから。これはもちろんある。次に、煙草を平気で喫むことができる体質であったから。ゴホゴホしたりしなかった。最後に美味しいから。ニコチンを補給したいという目的があることにはあるけれど、やっぱり煙草は美味しい。色々味があるし。

 結論。煙草を喫むことは惨めである。

悩め

 くだらないことで悩め。どうでもいいことで死ぬほど悩んでくれ。へらへらして辛いとかいうのをやめてくれ。もっと自分一人で地に足つけて、ひたすら悩んで欲しい。そういう人にこそ魅力を感じるし、そういう人になりたいと自分が思うから。

 怠惰な日々を過ごすこと自体を否定するわけじゃない。停滞も進歩の一つだと教えられたというか学んだことがあるし、きっとそれも正しさの一部なんだと思う。群れて停滞することに憧れを抱いていた自分は確かにあって、そういうことが下賤だと思っていても、下賤な輪にすら入れない自分が嫌で。入らないんでいいんだよ、君は君のままでいいんだよってもっと早く言ってくれる人がいたらよかったのに。周りにそこまで僕の人を見てくれる人が一人もいなかったし、こうやって自分の醜さを他人のせいにしたいところも醜いと感じるしどうしようもない。

 お互いに高め合える関係の人と友達になりなさいなんて、どこかの意識高い系みたいな感じがするので好きじゃない。居心地の良い人といればいいじゃない、と自分は他人に言ってあげたい。自分には言えないけれど。新しさがない人間関係は、時とともに磨耗して飽きをうむから。人間関係にも鮮度がある。大抵のものは鮮度がなくなったら腐るし捨てないといけないけれど、稀に鮮度がなくなることで美味しくなるものもある。そういったものに魅力を感じて、結婚とかする人がいるんだろうな。うちは家庭環境的に結婚が良いものだなんてかけらも思えないのだけれど。そこは当人同士の問題だし。

 こういう友達が欲しい、こういう人間と知り合いたいと願え。そうすれば、そういった人たちと知り合えるからと才媛に言われたので、まあそんなもんかと思う日々。僕は今人生で一番周りの人間に恵まれていると思うので楽しい。友人と駄弁ったり昼を一緒に取ったり、飲み明かしたりするのって何か《普通》って感じがするし。

 倉橋由美子に毒されたので、今日はここまでにしておく。雑記は正直自分でも何書いてるかわからん。

がんばれない

 中身のない人間になりたくないみたいな気持ちがきっと昔からずっとあった。これくらいの本はきっと大人の誰もが読んでいて、読んでいない自分はダメな人間で、だから本を読まないといけない。みたいな感じで生きてきた。

 世の中は誰もが偉いわけじゃなくて、何も考えず、何も知ろうとせず生きている人が多いことに気付いた時の失望感は大きかったけれど、でもそれが歩みを止めていい理由にはならないよなあとか思う。

 がんばらないと、がんばらないと。何を? 色々と。わからないことが多いし、自分の思考の幅の狭さに嘆くことに多い日々を脱したい。

 自分がすごいなあと思えた人たちに、君は普通の枠組みでそのまま生きていくこともできるのだと思うけど、私はもっとがんばって凄い人になってほしいと思うし、君ならなれるよ。ってよく言われた。

 自分が特別な感じがして気持ちが悪いのだけれど、何もがんばらないうちは何も変わってないんだよ、変わらないんだよってことは覚えておかないといけない。

 

 良い現実が欲しい、良い感受を持ちたい。気力がない。

小説を書く

 物語を書くということと、文章を書くというのは別物で、それを自分がわかっていると思い込みたい時期でもある。

 出来事の羅列でお話を作り出すことに慣れていないのは、形式というものが私の中にありはしないというか少ないからで。でも、そういった物語を書くことに不慣れな自分がいて、しかしやっぱり書きたいのは物語なのだ。

 小説を書くという行為は、自分を外に出すということを肯定する行為だという思いがあるので、一人称小説と言いますか語り手が主人公の小説しか書けないわけです。

 そういったことのもろもろを辛いと思うけれど、読んでくれる人がいる限りは文章を書こうと思う。読まれなくても書くのが私という人間なのですが。

 文章が読みにくい、語彙が少ない、この日本語は間違っている。そういった言葉を他人に使うときの、刺々しさに気付かないうちはやはり誰もが敵なのである。

 私には文章を書くことしかない。それ以外に意味を見いだせない。そう言い切ってしまえるような人間ではない。

 

 ポップな雰囲気の小説を書きたい。日本語におけるセンチメンタルな表現を書ける人になりたい。やりたいことが多いのは良いことです。

「感受体のおどり」

 

abさんご・感受体のおどり (文春文庫)

abさんご・感受体のおどり (文春文庫)

 

 これを読んだ。「abさんご」の方の感想はまた気が向いたら書く。たぶん書かないだろうけれど。

 

 本作は2013年に75歳で芥川賞を受賞した黒田夏子さんが書いた作品です。受賞したのは「abさんご」の方です。受賞したのはこの年ですけれど、あとがきを見るに二つの作品とも20年程度前に書かれていたもののようです。

 「感受体のおどり」が書かれたのは1984年らしい。単純計算で、40代半ばで黒田さんはこの作品を書いたことになる。正直言って、信じられない。

 作品に散りばめられた彼女の感性は若々しさに満ちていて、それは10代のようでもあり、20代のようでもあり、またそれ以上でもある。そのどれもが、虚構性というよりはある種の真実性を持って読者に迫ってきた。

 350の篇のどれも完成度が高く、読み終わったらまた適当に本を開いて読み返したくなってしまうほどで。走井が好きだった。あと、日本語がとても美しいのも魅力的です。「文化の匂いのする人」「敵」とかのくだりがすごい好き。

 様々な人と私の話が展開されていくなかで、やっぱり私は他者に悩む。他者、私ではない誰か、結局わたしにとっての世間なんてわたし以外の何でもないのに、と太宰的なあれやこれやを考えながら読んだ。

 

 いっぱい書きたいことがあるけれど、要領よく書けないので辛い。とりあえず、とても良いものを読めた。

 

もう私がやめようとしている教員という役割からはそうつきはなすことにいくらかのうしろめたさがあるとしても,印板があくまでも安穏な循環の中に受けいれられたいとねがうならば,すでに私たちは敵なのではなかったか. 

 

「さらば、愛の言葉よ」

 タイトルにある映画を見ました。前の記事で作品の感想を書くかは気分による、みたいなことを書いたのですがとても良いものだったので感想を書くことに。

 本作は2014年にカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した、ジャン=リュック・ゴダール監督の作品です。3D映画として公開された本作ですが、僕が見たのは2Dの方ですね。再上映があれば、見に行きたい。

 ゴダールの作品を見るのは初めてで、というかフランス映画自体見るのは初めてだったのですけれど、自分の中のフランス映画という想像とは大分かけ離れていて思いの外楽しめました。(しかし、フランス映画が全部こんな感じだったら、僕はたぶんフランス映画を好きになれない)

 この作品では、2組の男女と犬を主軸として物語?が進んでいきます。この作品を物語と表現するのは、とても嫌なのですけれど他になんと表現すればいいのかよくわからないのでこの言葉を使うしかない。

 この作品のテーマは作品の表題にある、「言葉」。それと「他者」なのかなあと思った。人は人と出会うことで、言葉を生み、それはすなわち他者に晒されているということを意味しているということがゴダールは言いたかったのではないかと思ったりした。

 特に印象に残ったのは、男女が子どもを産むかどうか話すシーン。女性の方が、子どもはまだいい。犬ならいい、みたいなことを言っていたのがこの作品のテーマを象徴していたように思う。子どもを産むということは、女性にとって自分の中から新たな他者を生み出すという意味で、とても勇気のあることで。犬は、人間を自分よりも優先して愛する生き物なので、人間よりも接しやすい他者なのでしょう。ここでいう他者とは、生きる権利を人間によって承認されているもののことです。

 作品の最後に赤子の泣き声が聞こえてきて、犬が立ち去るシーンがあるのですが、そこで泣きそうになった。犬はもう必要なく、この女性は他者を受け入れる準備ができたというか、強さを持てたのだなと感動してしまった。

 正直、2回見ないと意味がよくわからなかった。3回見るとまた違った発見がありそう。とても良い映画でした。他者性に悩む拗らせてる人たちに見て欲しい。