はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

考え方を変えるべきなんだよな

人と会えないことが寂しいなら、自分から会いに行けばいいし、勉強できないことが辛いならできるようになるまでがんばればいい。

受動的な態度で言い訳してないで、もっと前向きに生きるべきだってわかってるんだけどね。前向きに生きられるような人間なら、そもそもこんな風にはなってないですし。

とか言っても、月日は進んで僕は老いて、人間関係は変わっていく。あまり話したことのない人と関わるようになり、関わりを持っていた人と離れるようになる。そういった関係の中で自分が再編されていく。それはきっと、連続的で延長上にあるものなんですね。あの日の自分の。

とりあえず、自分から何かをしようかな。そうすることで、余計に現状に苦しめられることもあるけれど。がんばらないといけないし。

言葉

 言葉は現実や事象を矮小化するし、文字を読んだり言葉を通じて知れることなんてどこまでいっても表面的なことなんじゃないかなって最近よく考える。

 仮にも文学研究に片足突っ込もうとしているような人間が言うことではないのかもしれませんが……。

 私たちは言葉を尽くすことで、自分を表現した気になるし、相手をわかった気になることが多い。でもさ、そういうことに限界を感じる人っていると思うんだよね。たぶん、そういった人たちが映画を作ったり、絵を描いたりしたんじゃないかなって思う。違うだろうけど。

 言葉を相手に対して使うのは、伝えたいことがあるからで。でも、実際、どれくらい相手に伝わるのかなんてわからない。自分が伝えたいと考えたことさえ、言語化することで自分の思考とは関係なしに矮小化してしまう。堂々巡り。結局、僕らは確立された自己すら曖昧な存在だと理解しないとダメなんだよ。

 何に価値を置くかは人それぞれだけれど、帰属意識に存在の価値を置くのはダメだよなあっていう自戒的な話でした。

 

 小説が上手く書けないです。最近。スタイリッシュでなんでも知ってて、細かいことに気がついて、僕のことを気にかけてくれるような女の子にアドバイスを貰えたらなあとか考えてる。

最近読んだ本

承認をめぐる病

眼球譚

青い麦

 

他にも色々読んだ気がする。もっと読まないと、付け焼き刃でも文化資本を蓄積していかないと。

考えるという行為を止めると、大学で生きていけない気がして最近辛い。

もっと自分を好きになれれば、良いのでしょうけれどね。そこはあまり上手くいかないものです。

しんどい

 最近生活してて、しんどいなって思うことが増えたような気がする。たまに、ふっと胸が締め付けられて、気分が落ち込んで、ああしんどいなってなる。生きてることがしんどい、とまで言ったらあれだけど、まあ人と関わることがしんどいわけです。

 欲張りだから、与えられた、偶々手に入ったものに対してそれ以上を求めてしまうんですね。そうしたら、全部なくなってしまうことなんて、今まで生きてきてそれこそ何回も学んでいるのに。一番近くにあったものさえ、零れ落ちてしまっているのに、今更なあという気持ちがある。

 

 しんどい。気がついたら大人になってた。そういえば、大人ってなんだよって近頃よく思うんですね。思春期っぽいけれど。たぶん精神が幼いんでしょうね。で、大人ってなんだろうなあ。自分の尊敬できる人を思い浮かべてみると良い、それがあなたの思う正しい大人の姿なんだ。正しさなんて、いく通りもあるんだよ、君は君が思う正しい大人になればいい、なんて言ってみる。全部嘘っぱちなんですけどね。なんとなく、わかったようなことを言う癖があるから人に飽きられるのかなあ。

 納得して生きる、平気な顔して生きる、どうしてそんなことができるのかわからないこともあるらしい。僕もよくはわからないけど。

 知らない大人に怒鳴られて、世の中には見ず知らずの人に暴言を吐く人もいるのだなあと知りました。叱る人、怒鳴る人、わかったような顔して説教する人、諭す人、全員嫌いです。そこに発生するエゴというか、一時的なんですけど、私はお前より立場が上なんだぞみたいな感情が凄く嫌いなんですよね。だから、僕はそういうことしない人になりたいけど、無理だから誰とも関わらないようにして生きていきたいなあとか思うわけで。

 でも、やっぱり1人は寂しい。誰かと一緒に歩くこと、誰かと話をすること、それはきっと楽しいことなんですよね。でも、関わりすぎると自分の醜さが全面に出て離れられるんですけど。

 世の中思っていても言わない方が上手くいくことが多いなあと思った昨日でした。「美女と野獣」おもしろかった。

 今日は服とか買ったので、またお出かけしてみたい。

 

 楽しくいきましょう。書きたいことが多すぎるので、そのうちエッセイかエッセイ風の小説とか書くかもしれない。

 

煙草の話

 まずはじめに僕は喫煙者です。喫煙歴は言わないです。喫んでいるのは主にピースかゴロワーズです。両方とも6ミリのやつ。程よい甘さ。

 どうして煙草を喫むようになったかというと、まあ勧められて誘惑に負けたんですけれど。ダメですね、あれは。飲み会の席だと、煙草のテーブルだけは一気飲みとかしないでも別にみたいな空気が一応あって、そういう飲み会に参加しているうちに気がついたら毎日すぱすぱするようになってしまった。

 煙草を吸うという行為は酷く惨めな行為だと思う。昔はどうだったかとか知らないけれど、少なくとも今の時代は煙草を吸うなんてアウトローみたいな空気があって。禁煙しましょう、ナチュラルオーガニックばんざーいみたいな雰囲気で街中が溢れかえっているように思われる。吸っていたら通行人から嫌な目で見られるし、警察には身分証を出せと言われるらしいし、服は臭くなる。口臭も臭くなる。一つとしていいことがないように思う。つまり、煙草を喫むという行為は惨めなのである。

 ではなぜ、煙草を吸うのか。カッコいいから、という理由はもちろん当てはまる。これを否定する喫煙者は、カッコ悪い。実際男で煙草を吸い出したやつなんて、大なり小なり格好良さを求めていたに違いがないのだ。時代の波に抗うような格好良さを求めているのだ。実に反社会的だと思わないだろうか? 思わないな。考えるのは止そう。

 自分が煙草を喫み出した原因について考える。まず友達が吸っていたから。これはもちろんある。次に、煙草を平気で喫むことができる体質であったから。ゴホゴホしたりしなかった。最後に美味しいから。ニコチンを補給したいという目的があることにはあるけれど、やっぱり煙草は美味しい。色々味があるし。

 結論。煙草を喫むことは惨めである。

悩め

 くだらないことで悩め。どうでもいいことで死ぬほど悩んでくれ。へらへらして辛いとかいうのをやめてくれ。もっと自分一人で地に足つけて、ひたすら悩んで欲しい。そういう人にこそ魅力を感じるし、そういう人になりたいと自分が思うから。

 怠惰な日々を過ごすこと自体を否定するわけじゃない。停滞も進歩の一つだと教えられたというか学んだことがあるし、きっとそれも正しさの一部なんだと思う。群れて停滞することに憧れを抱いていた自分は確かにあって、そういうことが下賤だと思っていても、下賤な輪にすら入れない自分が嫌で。入らないんでいいんだよ、君は君のままでいいんだよってもっと早く言ってくれる人がいたらよかったのに。周りにそこまで僕の人を見てくれる人が一人もいなかったし、こうやって自分の醜さを他人のせいにしたいところも醜いと感じるしどうしようもない。

 お互いに高め合える関係の人と友達になりなさいなんて、どこかの意識高い系みたいな感じがするので好きじゃない。居心地の良い人といればいいじゃない、と自分は他人に言ってあげたい。自分には言えないけれど。新しさがない人間関係は、時とともに磨耗して飽きをうむから。人間関係にも鮮度がある。大抵のものは鮮度がなくなったら腐るし捨てないといけないけれど、稀に鮮度がなくなることで美味しくなるものもある。そういったものに魅力を感じて、結婚とかする人がいるんだろうな。うちは家庭環境的に結婚が良いものだなんてかけらも思えないのだけれど。そこは当人同士の問題だし。

 こういう友達が欲しい、こういう人間と知り合いたいと願え。そうすれば、そういった人たちと知り合えるからと才媛に言われたので、まあそんなもんかと思う日々。僕は今人生で一番周りの人間に恵まれていると思うので楽しい。友人と駄弁ったり昼を一緒に取ったり、飲み明かしたりするのって何か《普通》って感じがするし。

 倉橋由美子に毒されたので、今日はここまでにしておく。雑記は正直自分でも何書いてるかわからん。