はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

やがて春はくるだろう

 という言葉がずっと前から、頭の中でぐるぐると回っています。文章として、ではなくて、イメージとしてこの言葉が頭にふと浮かんできます。何の意味があるのか。そもそも意味なんてないのでは、と思うこともあるけれど、たぶんこれは小説のタイトルとして使いたい言葉なんだと思います。それにしては、「やがて春はくるだろう」ってダサくないですか……。ありがちだし、特に引き込まれる要素もないような気がしてきた。こんなタイトルを見て、読もうと思ってくれる人はいるのか。ラノベっぽいタイトルだから、その時点で既に読者を選別してしまっているのではないか。たかが、頭の中に浮かんできた文字列だけで考えすぎではないのだろうか。こうやって、文の最後が「か」で終わる文ばかりだと、下手な文章に見えますね。下手なんですけれども。

 タイトルなんか考えていないで、小説の本文を書くべきだと思う。書こうと思うと、書いていない事実に苦しくなるので、書けないのならタイトルとか考えるべきではないかもしれない。小説を書き始めても、しんどくなるとは思うのだけれど。専門が文学なせいもあって、いろいろな小説、批評、理論とかを読んでいるのですけれど、そうすると自分の書いているものにどんどん自信がなくなっていくんですよね。自分のこの作品には読者に伝えたい主題がなかった、なんてアホなことは言わないけれど、小説を書く上で重要なスタンスが上手くとれないので、自分で何を書いているのかわからなくなることがよくある。今のこの文章もそうなのだけれど。何か格好の良い文章を引用すると、この駄文も引き締まるのかな。面倒だからしない。

 小説を書くことが特別好きなわけではない。読むこともそこまで好きではない。僕はそもそも、昔友達が一人もいなくて、本を読むことしかできなかったような人間で。文学部に入った理由も本を読むことくらいしかやって来なかったから、という曖昧なものです。それも、大した量を読んだわけでもない。ライトノベルしか読んでいなかった。ライトノベルは文学ではないので、世間一般的に言えば。価値付けが上手くされていない気がする。社会的な出来事、その時代を包む人々の空気を反映してるんだとか、第二次言文一致運動だ、とか言えれば変わるのかもしれない。知らんけど。サブカルチャーが好きだったと思うのだけど何で好きだったのか思い出せない。とっつきやすいものばかりだったからかもしれない。

 小説を書くのに理由なんていりますか? いるに決まっている。理由もなく書き始めたら、それはただの散文で小説にならないじゃないですか。散文を「小説」という制度に落とし込まないと小説は小説足り得ないのは当たり前のことで。その意味で小説は真に自由ではない。自由なものなんて何にもないけど。言葉を使っている時点で。例えば、「森」という言葉を今、この瞬間目にしてみて、僕が想像した森とあなたが想像した森は絶対に違うでしょう。この時点で言語には不可能性がある。言語で再現可能なものは存在しない。観念の問題とか入ってくると面倒くさいな。気軽に、あなたって書いたけど、小説の地の文は気軽に「あなた」って書けないんですよね。聞き手の審級に「読者」も内包してしまうから。それでいいものはいいけど、悪いときもある。漱石の「こころ」とか最後それで、破綻している気がしないでもない。

 小難しく考えなくていいじゃない。楽しければそれでいいのよ。書いて公表した文章は作者の手を離れて、誰にでも批判される可能性があるわけじゃないですか。誰かに批判されるのは怖いし、だったらたくさん考えて批判されないようなものを書きたいと思う。書かないけどね。たぶん。いくら本を読んで、考えて、文章を書いてみても、上達しない自分が嫌になる。本を読むことも、文章を書くことも上達しない。難しい本を読んでも、それについて何か言えるわけではないから、難しい話ができなくて常に苦笑いしているときが一番しんどい。どうでもいいのだけれど。小説とかみんな読んでないし、ましてや僕の書いたものなんて読む人いないし、別に書かないでもよくないか。ここでいう「みんな」とは、「大文字の他者」を指します。こんなこと一々言ってたらアホだろ。

 結局何が言いたいんだろう。しんどいときは、小説ではなくて、適当な文章を書く方が良い、ということだろうか。頭を使って文章書くのしんどいからね、頭悪いし。春は来ない気がしてきた。僕はいつまで「小説を書いたりとか、一応してます」って言い続けられるのだろう。