はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

黒猫を反復すること

 「四月は君の嘘」というアニメを今更ながら観た。放送当時に人気だったのは知っているし、なんとなくお話の内容も知っていた。天才ピアニストがバイオリニストの女の子と出会ってその子が死んじゃう、みたいな。大体合ってたというか、その通りの作品だったけど。

 泣けるお話らしい。それと音楽があるという理由で観たのだけど、あまり好きではなかった。憧れの先輩と付き合ったけど主人公のことが好きで別れた幼馴染みとか、浮気性な友人とか、最後に種明かしをするヒロインたちが。余りにも記号的すぎてリアリティ、つまり説得力がなかった。中学生なんてこんなものなのかもしれないけれど。主人公を好きだったら何をしてもいいのだろうか。この子たちに誠実さはないのだろうか。傷ついた先輩、友人のことを好きな女の子なんだとひたすら思い詰めていた主人公の時間、そういったものがひどく蔑ろにされている気がした。

 小学生の頃に読んだ宮部みゆき『今夜は眠れない』のあとがきに、人の死で感動を演出するのは二流だ、みたいなことが書かれていたことを思い出す。悪いわけではないけどね。類型的だし。死はありふれているが、そこに物語が生まれることは当然あり得るし。むしろない方が不自然だとさえ思う。でも、それは猫も同じなんじゃないかな。猫の死は、主人公の感情を表現することや、物語の展開を予告すること以外の意味がたくさんある。

 作品見ていて、何回も反復される黒猫のイメージが気になった。主人公が餌をあげるのも、母親に捨てられたのも、ヒロインの病院を後にしたとき車に轢かれて死んだのも、レターセットのデザインも、最後に道の先で主人公を見つめるのも、どれもが黒猫だった。飼っていた猫の名前はいつの間にか忘却されて、固有性が失われ、ただ黒猫という表象のみになってしまう。あまりにも露骨な演出で、意味があることはわかる。けれど、その猫に物語が仮託されないことによって暴力性が生まれていた。つまり、猫の死は人の死より軽いということ。

 僕は別に猫教ではないけど、人間が一番えらいとかは思ってない。動物の死を物語るなら、もっと責任を持とうよ。がんばって最後まで観た。音楽はよかった。楽器やってみたいな。誰かと演奏してみたいな。