はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

加害の妄想

 眠れないから文章を書くというのは、良くない行為だと理解しているのだけれど、お酒を飲むと睡眠導入剤を飲んではいけないので、退屈しのぎに書く。

 小学校の頃、ある日友達の母親が病気で亡くなった。幼い私は、幼いなりにこの子に母親という言葉は使ってはいけないと思って、それ以来母親に関する話題は避けるようにした。母親というのは、彼の母親だけでなく、もちろんほかの全ての母親と名指される人々のことを含む。

 こういった誰かを傷つけてしまう言葉を発しないを心の底に持ちながら生きてきたのだけれど、そんなことは不可能なんだと思って頭がおかしくなりそうだ。私は中学の頃、両親が離婚して母親の気が狂い、しんどい毎日を送っていた。そのことは、親しい友人ひとりだけに話して他の誰にも話さなかった。知り合いたちは、私が小学生の頃にしたように、私に配慮はしてくれなかった。私の家庭環境なんて、誰も知らないのだから当たり前だ。話してないのだから。

 私は誰かが家族と仲がいいと言う話をするたびに、自分の家族を省みてつらくなる。しんどい。逆恨みだけれど、無神経なやつだなと思うこともある。でも、それは仕方のないことだ。家族で仲良く過ごす話には、何の罪もない。少なくとも私はそう思う。

 でも、何の罪もない話題に傷ついたしまう人はどこにでも存在する。それぞれ、異なった事情を持っているのだから当たり前だ。バイト柄、複雑な子どもと接する機会が多いけれど、私は実家があるという話をするたびに、この子を傷つけてはいないか、という不安に囚われる。だったら、そんな話はしなかったらいいのだけれど、会話の流れでつい話してしまうことが多々有る。これは一重に私のコミュニケーション能力に問題があるのだけれど。

 もう少し敷衍して考える。例えば、私はヘテロでマジョリティなので、同性の友人と集まったときは異性の話で盛り上がったりする(ホモソはよくない)。そのとき、この話をセクシャルマイノリティが聞くと、私は加害者になってしまう。「結婚したら子どもはやっぱり欲しいよね」と話せば、もう右ストレートを顔面に打ち込むようなものである。けれども、この発言に加害性はあるのだろうか。あるんだろうな。マジョリティであることが暴力で、あることは往々にして避けられないことではあるのだけれど、そんなことに納得して過ごすと気が狂ってしまいそうだ。

 自分は家族の話をされるのが嫌だ、でも自分の話で誰かを傷つけたくないというのは、完全に二律背反であり、恥ずべき思考だ。本当にそうだろうか? わからない。何かを話すのはとても怖い。誰かを傷つける妄想ばかりに囚われる。自分の加害性が嫌になる。でも被害者として、考え続けるのもおこがましい。そもそも、加害と被害はもともと対立概念ではない。翻訳がよくない言葉だと思う。でも、私の思考は時たま日本語に束縛されてしまう。今みたいに。

 寝ます。幸せに生きたい。