はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

眠れぬ夜のために

 小説ばかりを読んでいるとバカになるというのは、私の周りでは大変よく聞く話であり、私自身もそのように感じることが多くなってきた今日この頃であります。正しくは小説よりも物語といった方がいいのかもしれません。物語は何も考えなくとも読めてしまうからです。

 読むということには、一定の知識とテクニックと経験と、少しばかりのお砂糖が必要です。自分の今読んでいるものがどのような時代背景で書かれたものなのか、また技術的にはどのような段階の作品なのかといったことがまず理解できていなければなりません。さらに、当たり前ですが簡単なナラトロジーの知識も必要になります。小説とは、決して自由なものではなく、複雑な制度によって制限された芸術(小説はいつから芸術になり、またいつから芸術ではなくなったのか)です。制度を理解した上で読むこと、それが前提になっていなければなりません。

 かといって、小説を読むことに頭を使うのかというとそうではないように思います。哲学とか思想とかについて書かれた本を読む方がよっぽど、頭を使います。それもどうなんだとは思いますが。知的に誠実であること、小説についてそんな態度をとり続けることはとても難しいです。近頃の小説はそもそも知的な人が書いているわけではありませんので、土台無理な話なのだと思ったりもします。

 何が言いたいかというと、小説を読むのには体力がいるということです。決して眠れぬ夜の働かない頭で読むべきではないのです。まずは筋トレを3ヶ月続けて基礎体力をつけてからでないと小説は読めません。しっかりと日々の運動を忘れずに。煙草とコーヒーでページをめくりましょう。

覚書

 論文を書くためには、たくさん論文を読んで良い論文を見分けられるようにならないといけない。自分の中で良いと思う論文を見つけて、それの何が良いのかを箇条書して鋳型を抽出する。その鋳型に自分の考えたこと、調べたことを流し込む。

 そういうことを繰り返せば文章は上手くなるんだろうか。最近、内容よりも構成の美しさというものに拘りが出始めてきた。もちろん内容は大事なのだけれど。読みやすいものを。先輩からはよく、誰に向けて書くかということを意識しないといけないよ、といわれる。僕は自分に向けてしか文章を書けないので、そういうことを考えるのは苦手なのだけれど、自分が美しいと思うものを書こうとはしている。

 美しい文章を読んだときに懐く気持ちは、美術館で本物のフェルメールの絵をやっとの思いで見られたときの記憶を想起させる。ゴッホを見たときは、美しい絵というより懐かしい景色を思い出した感覚を得たので少し違う。この気持ちを自分の中でも感じたい。何かを解き明かしたいというより、美しいものを見たいというのが原点にある気がする。

 だからこそ、最近学生の書いてきたものを読んでイライラしてしまう。内容の拙さではなく、文章の不細工さに。毎日着る服や、スキンケアなどと同じ次元で文書にも接して欲しい。あなたの書いたものはあなたなんですよ? 愚痴を書いても仕方ない。本当はお酒を飲みながらダラダラこういうお話がしたい。誰か僕の美意識の話に付き合ってくれる人はいないだろうか。

作業効率

 文学専攻の大学院生の1日は、大学に行く、図書館で調べ物をする、本を読む、レジュメを作る、論文を書く、これらを1日が終わるまで繰り返すというものなのだけれど、最近はなるべく効率よくやるために現代のテクノロジーの力を借りるようにしている。

 朝はNike training clubというアプリで自重トレーニングをしている。ジムに行く金などないけど、運動はしたいのできちんとトレーニングメニューを動画付きで紹介してくれるこのアプリは重宝している。一月ごとにトレーニングプランを作成できるし、これまでやったトレーニングの記録も行われる。健全な肉体は、精神を病みにくいし、本をたくさん運ぶ大学院生にとって筋肉は助けになる。タバコはやめないけど。

 To doリストは以前までMicrosoftのアプリで管理していたけど滅多に開かないので、ウィジェットの表示できるリマインダーとアナログだけれど100均のホワイトボードで管理している。ホワイトボードが一枚あると、やらなければならないことの優先順位まで管理できて便利。たくさんやることがあるとパニックになるので。

 1日にできたことは万年筆用の小さなノートに書くようにしている。読んだ本のページ数とか、その日にやった授業の課題とか、トレーニングのこととか、些細なことでもいいので今日はこれをやったということを毎日書くようにしている。進捗管理ということではなく、これは自分の精神衛生のためにやってる。大学院生にとって一番大切なのは、論文を書くテンションに如何に自分を導くかということにあるので、鬱になっている場合ではない。常に書かなければというプレッシャーに押しつぶされそうになるけれど、コツコツ何かをやっている実感を物体として残せばまあなんとかなる。

 読書管理はノートと読書メーターでやってる。ノートには、本や雑誌に載っている小説の書誌情報と読んで考えたことを短くまとめて書くようにしている。研究書を読んだときは長いまとめになっちゃうけど。読書メーターは特に意味がないので消そうかと思っている。あれはSNS的な繋がりを志向するものだと思うのだけど、ただの管理ツールになっているので。読書に他人は必要ないですね。他者は常に本の中にいるので。

 あと毎日日記を書いている。書くことで自分の感情を言語化して、気持ちがまとまる気がする。最近だとコロナにかかったときの行動履歴に役立つのかな。よくわかんないけど。

 論文執筆や文献管理に役立つツールは難しい。論文はwordで書いてる(金があれば一太郎にしたい。格好いいし)。文献管理はデータベースからexelファイルに出力して管理しているけど、正直私は馬鹿なので上手く使えている気がしない。人より幾分か記憶力が良い分、頭の中でまとめる方が早いので。あとたまにeverynoteを使っている。性能のいいメモ帳という感じで考え事をメモして、それが検索できるというのが一番の強みになっている。日常でも整理が苦手なので、文章が整理できず開くのが面倒になっているけれど。マメな人には使いやすいんだろうな。金がないので無料版を使っています。

 最近はあとアウトライナーというのを使おうとがんばっている。workflowyとdynalistというやつをダウンロードした。文章のプロットのさらに骨組みを作るのに向いているっぽい(認識あってる?)。小説にも使えそう。思考が整理しやすいのだとか。こういうの以前は紙でやっていたけど、スマホのアプリだとどこでもすぐに書けるので便利なんだろうなと思う。紙に書くとすぐに失くしてしまうし。上手く使えると意識高そうで格好いいと思うので、がんばりたい。

 ブログは何の意味もないです。誰が見ているかもよくわかんないし。恥ずかしいことばかりを書いてしまうし。恥ずべきことなど何もないのだけれど。

 色々もっといい方法があるのかもしれないので、目の前のツールをうまく使ってがんばっていきたい。

 書き忘れたけどkindle paper whiteは便利です。kindle版の本はページ数がないので、引用に使うのは難しいっぽくて学術書を買うのは躊躇してしまうけど。あと小説も。

ゴキブリは飛行しない

 夜、部屋のドアを開けると、耳には羽音が響き目には何かゴキブリのようなものが写る。殺虫剤の入ったスプレーを振るけれど、気がつくとその姿はない。再び現れるのは、私が床に着くときである。耳元でずっと羽音が聞こえる。その度に私は、目を閉じてじっと精神が肉体から切れるように願い眠りに落ちる。

 身体から得られる情報に、嘘が混じると世界が歪む。正しい世界、そんなものがあるのかはわからないけれど、他者の観測できないものを観測してしまう不自由さは、私をひたすらに世界の外へと押し出す。見えるものが信じられなくなり、ただ目を覚ましているだけで恐怖に陥り、一人ではどうしようもなくなる。

 暗い場所を歩くことが難しくなったけれど、理性の力で肉体の情報を修正すればいくらかはマシになることに気づいた。客観的に?把握されている世界の情報を集めて、自分が見たあり得ないものを否定する。そのような行為の積み重ねによってしか、足元を固めることができない。

労働者のように

 大学院生活がはじまって、少しの時間が経って思ったことがある。以前は、大学院生って好きなだけ好きなことできていいなと思っていたけれど、それは少し間違いだった。

 大学院生は好きな時間に起きていいし、好きな時間に寝てもいい。いっぱい本を読んで、研究をして、論文をたくさん書くのが正義! これは最後だけ正しい。大学院生は論文を書かないとダメなわけだけれど、それは好き勝手に生活できるということを意味しないと言うことに気がついた。

 まず、調べものは図書館に行く必要があるので、調べものが多い場合は午前中から行くことが望ましい。朝早起きする。

 次に、長時間の調査と論文執筆には体力が必要である。身体が弱いとすぐに疲れるため、効率が上がらないだろう。そのことも考えて、普段から運動する必要がある。タバコはやめるな。あくまで目的のために行為せよ。

 最後に、夜遅くまでやるよりも翌日の朝やった方がミスもしないし効率がいい。よって早く寝た方がいい。

 論文を書くという目的を遂行するためには、健康な食事、適度な運動、適度な睡眠が必要だという当たり前のことにやっと気づいた。でも僕はインソムニアなので、無理なんだよなあ。

自分の頭の悪さに泣いてしまった。

自分で言うことではないけれど、僕は生者には最大限の敬意を表するタイプのお人好しです。倒れている人がいれば救急車を呼んで介助をするし、電車の席はしんどそうにした人に譲る。僕は膝が悪くて立ってるのがしんどいので、これはいや。良く生きようと思って頑張ってきた。どうすればいいのか考えて哲学や思想を学んだ。哲学は魂の慰めなので。このことがわかっていないと、勉強はただのファッションになります。

寸借詐欺にあった。本当に困ってそうな人で憐みからお金を渡してしまった。僕にとってそのお金の価値は今月ご飯を食べるための全てだった。彼にとっては飲み代か女遊びにでも変わるのだろう。まずは自分のお人好しさが辛くてしばらく治療で抑えていた鬱症状が出てきた。つぎに、社会に対する怖さを覚えた。僕って騙しやすそうな出立をしているんだろうな。よく知らない人に声をかけられる。もうこれからは、困っている人がいても助けない。救急車を呼ば無い。道を聞かれても教えない。お金はもちろんのこと貸さない。誰も信じない。

すごくショックだった。紙切れ一枚にそこまでする人がいることにびっくりした。交換可能性。彼は権威のある紙を持っていないから、交換形態(市場)に自己を投己できないのだろうな。裏技を使って再び参画していくんだろうけど、そもそもこの枠組みに囚われていること自体は悲しくならないのだろうか。詐欺師はそんなこと考えません。馬鹿には興味がありません。騙されたときのことを考えるとものすごくしんどくなる。誰か助けてほしい。公助はないだろうないなあ。この国はなんなんだ。

また人に騙されないかしんぱいです。悲しいです。関わりあう人々には常に誠実に向き合うことを目標に生きてきたけれど、こころが折れてしまった。だれかたすけて、なぐさめて。

世界は美しくない。加害と被害の対立関係でしか世界は語れない。いきることはむずかしい。へんな虫に這い上がられる感触、比薙沢症候群のステージ5みたいだった。まあ普通に医者に脅されてた糖質が進行しているっぽい。こんな状況になると、誰かに助けてって言うこと自体が難しくなる。

「世界はそれでも美しいんだよ!」と強く訴えてくれた女の子はどのゲームに出ていたのだっけ。

加害の妄想

 眠れないから文章を書くというのは、良くない行為だと理解しているのだけれど、お酒を飲むと睡眠導入剤を飲んではいけないので、退屈しのぎに書く。

 小学校の頃、ある日友達の母親が病気で亡くなった。幼い私は、幼いなりにこの子に母親という言葉は使ってはいけないと思って、それ以来母親に関する話題は避けるようにした。母親というのは、彼の母親だけでなく、もちろんほかの全ての母親と名指される人々のことを含む。

 こういった誰かを傷つけてしまう言葉を発しないを心の底に持ちながら生きてきたのだけれど、そんなことは不可能なんだと思って頭がおかしくなりそうだ。私は中学の頃、両親が離婚して母親の気が狂い、しんどい毎日を送っていた。そのことは、親しい友人ひとりだけに話して他の誰にも話さなかった。知り合いたちは、私が小学生の頃にしたように、私に配慮はしてくれなかった。私の家庭環境なんて、誰も知らないのだから当たり前だ。話してないのだから。

 私は誰かが家族と仲がいいと言う話をするたびに、自分の家族を省みてつらくなる。しんどい。逆恨みだけれど、無神経なやつだなと思うこともある。でも、それは仕方のないことだ。家族で仲良く過ごす話には、何の罪もない。少なくとも私はそう思う。

 でも、何の罪もない話題に傷ついたしまう人はどこにでも存在する。それぞれ、異なった事情を持っているのだから当たり前だ。バイト柄、複雑な子どもと接する機会が多いけれど、私は実家があるという話をするたびに、この子を傷つけてはいないか、という不安に囚われる。だったら、そんな話はしなかったらいいのだけれど、会話の流れでつい話してしまうことが多々有る。これは一重に私のコミュニケーション能力に問題があるのだけれど。

 もう少し敷衍して考える。例えば、私はヘテロでマジョリティなので、同性の友人と集まったときは異性の話で盛り上がったりする(ホモソはよくない)。そのとき、この話をセクシャルマイノリティが聞くと、私は加害者になってしまう。「結婚したら子どもはやっぱり欲しいよね」と話せば、もう右ストレートを顔面に打ち込むようなものである。けれども、この発言に加害性はあるのだろうか。あるんだろうな。マジョリティであることが暴力で、あることは往々にして避けられないことではあるのだけれど、そんなことに納得して過ごすと気が狂ってしまいそうだ。

 自分は家族の話をされるのが嫌だ、でも自分の話で誰かを傷つけたくないというのは、完全に二律背反であり、恥ずべき思考だ。本当にそうだろうか? わからない。何かを話すのはとても怖い。誰かを傷つける妄想ばかりに囚われる。自分の加害性が嫌になる。でも被害者として、考え続けるのもおこがましい。そもそも、加害と被害はもともと対立概念ではない。翻訳がよくない言葉だと思う。でも、私の思考は時たま日本語に束縛されてしまう。今みたいに。

 寝ます。幸せに生きたい。