はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

何がなんでもエウレカを起こさなければならない

 「エウレカ!」と叫ぶ作品といえば、僕の中では「ペンギン・ハイウェイ」と「インターステラー」なのですが、この知的発見の瞬間を表現する言葉を何としても僕も叫ばなければならないと日々考えて過ごしています。

 大きな紙にそれまで調べたことを書き連ねて、それを眺めると繋がりが見えてくるらしいのですが、大きな紙を用意するのは面倒くさいので僕は文明の利器に頼ることにしました。というわけで、最近iPadを買い、thinkspaceというアプリを入れました。これはまさにエウレカと叫ぶためのアプリで、手書きとテキスト入力のバランスがよく操作性も直感的でわかりやすいので大変重宝しています。

 論文を書かなければ、色々とどうしようもなくなってしまって人生が終わるかもしれない(終わるか終わらないかはわたし次第なわけですが)状況の中で、エウレカ!という体験は非常に重要な位置を占めていると思う今日この頃です。本を読んで調べ物をしても、すぐに忘れてしまうので、それをいちいちメモにとるのですが、僕はメモの存在すら忘れてしまう間抜けなので、thinkspaceのような一つの空間に全てをまとめてくれるものはありがたい存在としか言いようがないです。

 scrivenerというのも入れてみたのですが、これは既に書いた文章を構成/校正するのに役立つソフトなので、ちょっと違うなという印象でした。最近気づいたのですが、本を読む→調べる→thinkspaceでエウレカを起こす→workflowyなどのアウトライナーで書き起こす→scrivenerで整える→wordに出力する、というのが論文を書く上で良い流れなのかもしれないです。

 うまくいくかはわかりませんが。うまくいってもらわないと困る。あとは孤独にがんばって耐えることも必要。「孤独とは死に至る病なんじゃよ」て「狼と香辛料」のホロも言っていましたよね。とにかく死なないように日々がんばるしかないのです。

さようなら、私のエヴァンゲリオン。

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観た。

以下には、その感想と私のエヴァとの関係を書こうと思う。

 

エヴァンゲリオンを初めて観たのは中学一年生の頃、2009年の夏頃だった。当時少しずつアニメを見始めた私は、仲の良い友人にオススメのアニメを聞いて、そこでエヴァの存在を知った。

そのときに見たのはTVアニメ版だった。エヴァについて、人気だというざっくりとした前知識はあったけれど、どんなアニメなのかは観るまで何も知らなかった。

もう今では遠い昔のことなので、ぼんやりとしか思い出せないけれど、一周目は1日で観終わってしまったことを覚えている。エヴァの戦闘シーンは華やかだけれども、戦闘よりもミサトさんとアスカとの生活の描写の方が印象に残っている。当時はツンデレのヒロインが流行っていて、その先駆けであるアスカというキャラクターが私にはとても魅力的に見えた。レイやゲンドウはあまり印象に残らなかった。

TV版の最終話は色々と言われているけれど、中学生のありきたりだけれど少し複雑な環境にいた私にとっては、とても刺さるもので「僕はここにいていいんだ」というシンジのセリフに感動した。

勧めてくれた友人とエヴァの話を何度もするうちに、他のエヴァ作品も観たくなり、すぐに旧劇場版や他の映画も観た。どちらも難解な作品で、まだ知識も経験もない私には理解することができなかったけれど、壮大な世界観に心を奪われた。

その後数年は鋼鉄のガールフレンドをやったり、碇シンジ育成計画を読んだり、貞本エヴァを買ったりした。個人サイトで書かれているSSも読み漁ったし、LAS系の同人誌を買ったこともあった。エヴァの世界は原作だけでなく、読者によっても広がっていくという事実が私にはとても新鮮だった。

新劇場版をいつかの金曜ロードショーで観た。たしかQの放映記念で、序と破が連続で放送されていた。Qを観に行きたくなった当時の私は、一人で映画館に行き前売り券を買い、公開初日一人で観に行った。友人とは後日また観に行った。

それまで映画をあまり見たことのなかった私は、一人で映画館に行くというのが初めてで緊張したことを覚えている。初めてQを観たのは、劇場の前の方の座席で観るのがしんどかったけれど、初めて大画面で観るエヴァンゲリオンに満足した。映画の内容は、たしか破から14年が経ったという設定で、色々なことが変化していて戸惑ったことを覚えている。突き放された感覚。

劇場を出た後、パンフレットとグッズを少し買った。エヴァンゲリオンに生活が囲まれるということが少し嬉しかった。

「続きはいつになるのかな」

「俺たちもうシンエヴァの頃には大人になってるだろうな」

友人とQを観に行った帰り道、こんな会話をした。まさかこれが現実になるとは思っていなかったけど、当時は大人になってもエヴァのことを好きなのかな、私は果たして観に行くんだろうかといったことを考えていた。

それから、数年は貞本エヴァの新刊が出たら買って読む、pixivなどでSSを見つければ読むという感じだった。アスカのフィギュアも2体手に入れて、机の上に飾っていた。アスカのことが好きだった。何となく。今となっては死後に近いけれど、初めて二次元の女の子を好きになったのだと思う。

貞本エヴァの完結。雑誌は買わずに単行本の全巻収納boxつきのやつを買った。読んだときには、もうエヴァの終わりはこれでいいよと思った。貞本エヴァは旧劇の途中くらいから話が分岐していくという筋立てなのだけれど、綺麗に終わっていたし、何よりアスカが救われていたので私的にはほどほどに満足だった。

大学生になって、エヴァについて書かれた文書というものを初めて読んだ。某批評家のエヴァ論で、それがとてもおもしろく、その批評家の他の文章を読むうちに気がついたら私は日本文学を専門に学ぶようになっていた。

思想や文学について学ぶほど、度々エヴァンゲリオンのことを考えるようになった。作品のテーマ設定、作劇法、社会への影響。そういったことの方に関心が向いていたからだ。

エヴァ展にも行った。新劇の作画資料などを見て、懐かしい気持ちを覚えた。まだエヴァは終わっていないのに。色々な映画、アニメ、文学に触れすぎたせいかもしれない。私生活にも様々な変化があり、私はもう中学生の自分ではなくなっていた。

シンエヴァがようやく公開するということを去年に知った。どうせ延期するんだろうなという気持ちで待っていたけれど、先週映画館のチケット予約画面を開いたとき、どうやら本当に公開するらしいと知った。

 

そして今日、朝一の回でシン・エヴァンゲリオン劇場版を観に行った。朝早く起きて、映画館に行き、入場前に長い列に並んでパンフレットを買った。劇場には私より若い人が多くて、すこし不安な気持ちになった。

入場して座席に座ると、緊張感を覚えた。本当にシンエヴァは始まるのだろうか、そしてエヴァンゲリオンは終わるのだろうか、そのような気持ちだった。

色んな映画の予告編があり、とうとうシンエヴァが始まった。前回までのエヴァンゲリオンという総集編が始まって少し笑ってしまったけれど、これまでの時の流れを感じた。

それから本編が始まった。荒廃した世界。シンジの運ばれた村は、生き残った人たちの住む集落だった。そこには子供を持ち、結婚したトウジの姿があった。また大人になったケンスケの姿もあった。彼らがシンジを心配する様子は、大人そのもので、対応としては当たり前なのだけれど、それを観た私は戸惑ってしまった。

年月を経れば誰もが大人になる。けれども、シンジは大人になっていない。それを観る私は大人になっている。その関係性がとても不思議なものに思えた。

村の様子は戦後を連想させた。農村での労働、配給、古びた家屋。ニアサードインパクトの影響で技術力の落ちた社会はまさに戦後日本だった。

心を閉ざしたシンジ。いつもの自閉が始まって、私も置いてけぼりの気持ちを味わった。そっくりさんとの交わり。綾波の形をした初期ロットだけがシンジと昔のように関わっていた。ケンスケとトウジ、そしてアスカはシンジが自分で気持ちを整理するために一人にしておくという大人の対応だった。みんなが大人になっている。僕も大人になったはずなのだけれど。

シンジが自分を取り戻し、村に馴染み始めた頃、ケンスケからカジさんとミサトさんの息子を紹介される。シンジが眠っている間、私がエヴァを待っている間にも物語は進んでいた。人の関係性は変わり、TV版では知らなかったことが多く明かされた。

ヴンダーに戻ったシンジ。アスカはマリと会話する。マリにシンジとの関係性を聞かれたアスカは「ガキに必要なのは恋人じゃなくて、母親なのよ」と口にする。その言葉で、私はアスカがあのアスカなのではないのだということを認識させられた。

ネルフとの最終決戦。フォースインパクトを阻止するためにミサトさん、リツコさんたちは戦いへと向かう。破ではシンジに全てを背負わせてしまった。大人として私たちが責任を負うべきだった。そのような悔恨が語られる。エヴァに大人のとしての責任が描かれることにまたしても私は戸惑った。

「僕はここで水を撒くことしかできない」そういったカジさんは既に責任を負った大人としてこの世にはいない。

ネルフとの戦いが始まる。「第一種戦闘配置」そのセリフと共に、昔とは異なる面々が敵へと立ち向かっていく。エヴァンゲリオンが投入される。アスカとマリは、シンジの元を訪れ、アスカは最後の言葉「あんたの弁当美味しかった」を残し、マリは「再见」と言う。再び見るという言葉はさようならを意味するけれど、再会を暗示しているとも聞こえる。

エヴァンゲリオンの戦闘のあと、最後にシンジがエヴァ初号機に乗る。もう自閉しているシンジはいない。「ちったぁ、大人になったじゃない」と言われた通り、自分の行動に責任を持つ覚悟をその表情は示していた。

ゲンドウとの戦闘。記憶の再現として、現実と虚構が混ざり合うその場所で、シンジはゲンドウと会話することを選ぶ。記憶の場面が特撮だったり、セットだったりとして描かれるのは、それが物語の外側、エヴァンゲリオンという作品の歴史を示している。

「父親に息子ができることは、肩を叩くか殺すしかないのよ」

神=父親を殺すこと、母を喪失し成熟すること。そこには戦後から成熟へと向かったかつての人々の姿が重ね合わされる。父は肩を叩かれたわけだが。大人は父を殺さない。

画面にはセット共にTV版の映像が画面の中のスクリーンに映し出される。それによって、私はこれまで書いてきたエヴァンゲリオンという作品と私自身のことを思い出した。そして、今の私を。私は大人になっている。

人類補完計画の失敗。旧劇のラストシーンと同様のシークエンスから話は分岐する。そこでは、エヴァンゲリオンという作品全体を含めたメタ構造として、エヴァがループの物語であることが明かされる。

シンエヴァをここまで観なければ、私にとってのエヴァンゲリオンは終わらなかった。最後、声変わりしたシンジがマリと共に手を繋いで前へ進むところで映画は終わる。

最後の場面が電車だったこと、他の登場人物が反対のホームにいたことは貞本エヴァを連想させるけれども、村で描かれていた繋がらない線路、人を運ばない電車、そしてTV版で繰り返される電車の風景をイメージするべきかもしれない。

それはともあれ、声変わりをしたシンジが未来へと踏み出しエヴァンゲリオンは終劇となった。考えられること考えたいことはたくさんあるが、ひとまずエヴァンゲリオンがようやく終わったという実感の方が今は大きい。

この感慨は長い年月を待たなければ得ることのできないものだったし、それに見合う作品を世に送り出してくれた全ての方々に感謝を捧げたい。

大人になってよかった。さようなら、私のエヴァンゲリオン

 

趣味が欲しい

いつもいつも同じことで悩んでいるのに一向に何もかも解決を見せることはない。

しんどい気持ちを紛らわすために何かをやりたいので、それらしい趣味を探している。といっても、趣味なんて何か好きなことを自発的にやるのがいいっていうし、そうすると僕に好きなことなんてほとんどないし何もできない気がする。

何か趣味をすることによって孤独を紛らわしたい。毎日本を読むことは本当に孤独な行為なのだと最近気づいた。本は他人との対話みたいなことを言うやつは本を読めていないんじゃないかと思う今日この頃。本は僕に何かを語りかける権利をくれません。さびしい。

一人でいて丸一日誰とも話すことがないと寂しくなる。何というか、自我がとても不安定になる。誰かと話したい気持ちはあるけれど、誰かに話しかけるのはとても苦手なので、趣味を始めて一人で完結したいと思っている。

趣味って何があるんだろう。コンテンツ消費系と創作系に分けられるんだろうか。他にも色々アクティブ系とかあるんだろうけど。研究は好きだけど、何というか全てが苦しくなってくる時期があるので息抜きが欲しい。映画とかアニメとか観るのが好きだった気がする。創作は小説を書いていた気がする。でも今は何かを見たり書いたりする能力を余暇に避けないほど脳のリソースが研究で埋まっているので、難しいのかもしれない。

人と話すのが一番良い気がする。でも人と話すのは難しい。僕は人の話になかなか興味を持てないし。そもそも気軽に話してくれる人がいないし。つらい。

明日もコツコツがんばろう

文章の書き方

 最近はひたすら書いた論文を人に見せてボロクソに言われて泣きながら書き直していることが多いのだけれど、そういうことを続けていくうちに書き方について考えるようになった。

 僕は馬鹿なので長い文章を書くことはできてもそれを有機的に繋げることがとても苦手で、推敲なんてすると自分の書いた文字列に酔って頭がパンクする有様になってしまう。そこでどうにかしようといろいろ考えて、アウトライナーとか執筆ツールをPCに入れてみたけれど、馬鹿すぎて使い方がよくわからず何も進まない。

 昔からの何事も形から入るタイプなので一太郎が欲しいとずっと思っている。ちなみに一太郎という名前は知っていても機能については何も知りません。お金は本を買うのに精一杯なので、そんな物を買う余裕はありません。

 論文のような機能的な長い文章を書く際に、すべきことはまず入り口と出口を決めること。これは適当に長いものを書きながら考えるしかないと思う。そのあとにようやくアウトラインを書く作業がくる。

 節ごとに何を書くかを決める。それを並べて一つのストーリーになるように組み合わせる。問題→論証1→論証2→結論。こうだからこういえます、という簡単な論理を考える。それから細部を詰めていくという形になる。文学研究の場合、時代状況(社会、文壇)の整理と文学史の整理をしながら対象を位置付けていくという行為になると思うのだけれど、これをどういう順番でやるのかがよくわからない。他の人の論文を何本も参考にしているけれど、みんな書き方がちがう。

 その人の書き方の違いによってもらえるアドバイスが異なってくることに最近気づいた。僕の文章の一部についてまるで対照的なことを言う人たちがいたので。何を信じればいいんだ……と思ったけれど、「お前の信じる俺を信じろ」とアニキに言われたのでそうすることにした。グレンラガンおもしろいよね。

 思考の流れはいつも脱線してしまう。僕は普段喋っている時から一貫したことを喋れないし、書くことも尚更うまくいかない。たぶん多動性の一種だと思うのだけれど。ADHDの子は発達すると身体的な多動が頭の中に移る?ケースが多いらしい。僕は検査を受けていない。お医者さんからみたら僕は礼儀正しい健常者らしいから。

 そんな頭だから紙に書き起こす方が考えやすいと思った。書いた文章をプリントして赤を入れていくのが今のところ一番楽。ペンギンハイウェイみたいに「エウレカ!」ってならないかなと密かに期待しながらやっているけれど、紙が少ないので難しい。紙やノートはとても高い。その点PCは本体が消耗していくだけなので便利。でも視覚的な情報でいうとPCより紙の方が多くなる。これが一番よくないところで僕がちゃんと使えたらPCでも何とかなるんだと思う。誰かアウトライナーとかの使い方教えてくれないかな。老人になりたくないし。

 仲間内で論文の内容などについてはよく話すけれど、書き方についてはよく話さなかった。最近頑張って色々聞いてみると、一度書いて捨ててから書くという人や、横書きにして書くという人(画面内に行が収まるからいいらしい)や、wordで何度も書き直す人がいた。構成の考え方とかみんなどうしてるんだろう。ぼくはやっぱり馬鹿なので色々な人の話を聞いて良さげなのを真似するのが一番かと思った。

 ということでこれまで書いた論文は破り捨てよ。くるしい。いつまで書き直しても終わらない感覚。もっと勉強し始めてからの方がよかったかもしれない。泣きそう。でももっとがんばらないと色々な免除がとれない。

 お金がなくなったら死のうと思っているので、生きられるのはあと数年かもしれない。できるだけ本気で頑張る。がんばってるつもり。でももう小説の読み方すら忘れてしまった。誰かと遊びに行ったりしたいな。

24歳になった

 24になったのにも関わらず、僕は相変わらず論文を読んで頭を捻っている。良いものを読むと自分の不甲斐なさに打ちのめされて吐きそうになるし、重要な資料を見つけると自分の論文にどう組み入れるかで頭を悩まされる。

 まさに僕は血反吐を吐きながら勉強をしている。昔から集中して何時間も本を読める体質ではなかった。小学校3年生の頃はハリーポッター1冊読むのに2週間もかかっていた。文字を読むことは苦痛でしかなかったけれど、読まなければ立派な大人になれないという意志でなんとかここまでやってきた。最近、何も読まなかった方が普通の大人になれたんじゃないかと気づいた。時既に遅し。いかに読まず、書けずでも僕はもうこの道をノロノロと進んでいくしかない。

 なぜ本を読むことに集中できないのか。ADHDのように、僕の頭の中が常に多動だからだ、と最近は類推している。ちなみに精神科の先生からは、君は至って論理的に話すし立派だから発達障害とかはないよ、と言われた。何をしていても僕は一つのことに頭を傾けることができない。本を読んでいて、ふとした言葉から脳内で連想が始まり、記憶が映像として再生され、僕の目はただ文字をなぞるだけの機関になる。どうしようもないことだと思う。文章を読むのは苦手だ。

 文章を書くことも苦手だ。特に論文……。自分の連想を抑えながら、つまりひたすら抑圧して書かなければならないから。あと、一度書いた文章を直すのもとても苦手だ。自分の不甲斐なさが言葉として示されている状態に耐えきれない。いつも推敲するときはイライラして、煙草を吸うか身体を動かしてしまう。物を殴ろうとしたこともあったけど、貧乏者からできなかった。壊れたらもったいない。どんなものでも。あと、単純に自分の日本語の下手さに苛立つことがある。なぜもっと美しく知性的に、論理的に、おもしろく、誰もを納得させるようなものが書けないんだろう。いつも袋小路に入って出られなくなってしまう。

 要するに、僕は机に向かうのはとても苦手な部類の人です。でも机に向かわないといけない。だからこそ、最近は色々なことを試している。まずひとつ、ホワイトボードを買った。机に立ててその日やるべきことを書く。普段は午前、午後でわけているけれど、大学にいるときといないときで分けることもする。できたら、赤ペンでチェックを入れていく。

 もうひとつは、書見台を買ったこと。座って本を手に持って読むと、肩腰に負担が多かったけれど、書見台を使って読むようにするとそれらは全て改善されてしまった。なんでみんな買ってないの? なんで義務教育の机に全て書見台を設置しないの? と疑問を抱いたほど、すばらしいものだった。ぜひおすすめ。

 次は手帳を買ったこと。書き入れる予定なんてひとつもないけれど(さびしい)、記録用に使っている。僕は毎朝必ず一本は何かしら論文を読むようにしている。それについての情報と簡単なメモを手帳には記している。自分がこれだけがんばっているんだと自覚できるので良い。自分が何をしているのかわからないとき、これまでの集積が僕を立たせてくれる気がする。

 最後はポモドーロ法。25分作業をして5分休む。これを4セットやってから30分程度休憩をとるらしい。立ち読みした自己啓発書で知ったのだけれど、案外良い方法だった。専用のアプリが出ているらしいけれど、僕はiPhoneのタイマー機能をつかっている。集中できているかわからないけれど、作業は遅々と進んでいる。5分の休憩のときに、洗い物を片付けたり、部屋をクイックルワイパーで掃除したらするのが好き。スマホは触らないようにしなければならないので、時間を潰すために軽く家事をやるとちょうど良い。習慣化できたらいいなと思う。アラーム音で判断するから、大学だとできないかもしれない。

 がんばるためにはがんばる環境がいる。少し前まで、圧倒的な意志の力さえあれば僕は何でもできるんだと思っていたけれど、最近は意志より身体を動かすことを習慣化すべき方が良いと思っている。僕は弱いので、すぐ目の前のことから逃げてしまう。逃げ回っても、いく先なんてないのだけれど。何が正しいのかわからないけれど、そろそろ結果を出さなければならない。ブルジョアではないので、お金がなくなると僕はそこで死ぬしかなくなってしまう。生存戦略。本当は誰かに縋って優しくされたいとばかり思っている。

 今日は幾人かの人がお祝いのメッセージをくれた。嬉しかった。こんな日にしか連絡がこないことに淋しさもおぼえた。何かプレゼントが欲しかった……。女々しいか。

 

 

最近楽しかったこと

 特にないかもしれない。今日はあらゆることに耐え切れなくなって、泣いてしまった。気分を良くするためにラーメンを食べに行こうと思った。ラーメン屋に行く前に駅前の本屋さんに入った。

 この本屋はとても昔からあるにも関わらず品揃えがとても悪い僕にとっては謎の本屋である(失礼)。店舗が小さいこともあってか、雑誌と自己啓発書と漫画が中心に置いてあるだけ。小説が少しあるけれど、出版社ではなく作家名で配架しているため汚い印象を受ける。美意識がない。ボロカスに言っているけれど全てが悪いわけではない。入ってすぐの本棚2つ分に古本を置いてくれているのはとてもよいと思っている。僕にとってはくだらない本が多かったけれど、せっかく足を運んだので松浦理英子中上健次を買った。

 本屋のすぐ近くにある天下一品に入った。先客は一人だけ。空気がいつもと違っていた。メニューを見て、並ラーメンのこってり麺ふつうを選んでしまった。僕に心の余裕があればセットを頼めたのかなと、ありえないことを夢想した。ラーメンは美味しかった。けど昔感じた衝動からはかけ離れている感じがあった。その差異に耐えきれなくなりそうだった。並にしたせいで食べ終わってもお腹は空いたままだった(僕はデブなのかもしれない)。自分の情けなさに耐えきれなくなったので、会計のときのスタンプカードも断った。

 帰ってから煙草をすった。とんでもない量を。楽しいことはなかった。煙草を吸うことは精神状態に関係しているので、依存ではあるけれど趣味ではない気がする。自分の機嫌を取ることができない。みんなはどうやって生きているのだろう。僕は根本的に一人で生きるのが苦手なのかもしれない。かといって、誰かを誘うこともできない。永劫回帰

 楽しかったことを探す。アニメを見たのは楽しかった。Youtubeを見るのも楽しかった。でもそろそろ何かを書かないといけない気がするんだ。何もかけないんだけれど。おもしろい話を書きたいわけではない。君の小説はずっとぐるぐるしてるね、と言われた事があるけれど、それでは永劫回帰なので外に出なければなりません。

 外、そこに一体何があるのか。何をしたら楽しいのか。そんなことすらわからなくなって、どうしようなくて、いつも最後には泣いてしまう。「この街から出られないんだ」と泣きながら言っていた人を思い出す。泣いてはいなかった。あの映画はどうやって外部へと行ったのだっけ。それは確か恋だった気がする。

 むかし何でもない人が「セックスやお金で買えるものよりも気持ちいいものを目指してる」と言っていた。学問は気持ちがいい。でもそれはありきたりな愛よりも? 僕は凡庸です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰が読んでいるのか、誰も読んでいないのか

 

残響

 最近は勉強をする、資料を読む、論文を書くの3つをひたすら繰り返すだけの日々を過ごしている。大学に行くことも今はできないので、部屋で一人朝から寝るまで、同じことしかできない。何にも増して優先されるべきことは、論文を書いて発表するということなので、まあやるべきことはやっているわけだけれど、息抜きをすることができないので、ストレスがとてつもなく溜まってしまう。

 Twitterはなんだか使い辛い雰囲気になって(知り合いをフォローしていること、くだらないことを言いづらい変な感じ)、趣味もなんだったか忘れてしまって、やるべきことしかできないでいる。自分の趣味がなんだったか振り返る。映画を見たり、小説を読んだりすることが好きだった気がする。でも最近はそれが上手くできない。自分の中で創作物を鑑賞する上での理論的な枠組みが蓄積されてしまったせいで、何かを見ても勉強をした気にしかならないことが問題だと思う。

 散歩をするのが好きだったけれど、そもそも冬の寒さに弱いので外に出るのが億劫。買い物をするのが好きだったけれどお金はない。お酒を飲んで人と話すことがとても好きだけれど、このご時世だと当然やりにくい。気軽に話しをしてくれる人が段々と少なくなっている。友達が少ないことが原因かもしれない。誰かと話さないとモヤモヤすることが多くなってしまう。誰でもいいから会話してほしい。

 こんなことを考えていると鬱になってしまうので、そもそも私は鬱ではなかったか、これからやりたいと思っていることを考える。ずっと前に花を育てたいと思っていたことを思い出す。一度も育てたことなんてないけれど。やってみたいことだから、気にする必要もないかもしれない。他に何があったっけ。もともと、特にやりたいことなんてなかったのかもしれない。小説は書きたい? 本も作りたかったような気がする。長い小説を書くことはできないので、短いものをたくさん書くのがいいのかもしれない。海を見に行きたい。山は幼い頃から入りすぎたので飽きた。どこかに行こうと思いはするけれど、いまここからどこにも行けない自分の不甲斐なさに打ちのめされてしまう。

 この書きかけの思考は一体何のために書いていたのだっけ。