はなのかんばせ

だいがくいんせいのらくがきのーと

鳥の死体

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 鳥の死体を見つけた。ふと数年前にカラスの死体を見たことを思い出して写真を撮ってしまった。

 昔からよく死体を見つけると立ち止まってしまう。育った場所が田舎だったということもあり、車に轢かれた狸の死体はよく目にした。死体には必ず蟻が集っている。肉を少しずつ運んでいるのだろうか。奇妙な列をなして肉を運ぶ小さな生き物たちに、ひどく嫌悪感を覚えてしまったのは随分と昔のことだった。

 子どもの頃、私はよく生き物を飼っていた。カブトムシ、カナヘビ、カマキリ、金魚。どれも一年以上生きたものはいなかった。そのどれもにそれぞれ言いようのない感情を伴った思い出がある。

 カブトムシは幼虫から育てた。夏休みの自由研究に観察日記をつけるために買ってもらったのだったと思う。当時、進研ゼミのテストを提出することで貰えるポイントを使って手に入れたフィルムカメラで、毎日一枚ずつ写真を撮った。フィルムは今のスマホなどとは違って、印刷するまでちゃんと撮れているのかわからないもので、記録をつけられたかわからない不安ととともに文章を綴った。このカブトムシは私の育て方が悪かったせいか、蛹から成虫になったとき、奇形として生まれてしまった。片方の羽がうまく成形されていなかったのである。飛ぶことのできない、飛ぶことを許されていたはずの存在に、私はとてつもない罪悪感を覚えた。奇形であったからか、そのカブトムシは夏の終わりに亡くなってしまった。そのことを私は今でも眠れぬ夜に思い出し、泣きながら謝り続けてしまう。この感情は傲慢なのかもしれないと思うけれども、流れ出す涙はどうしようもなかった。

 カナヘビは近所の公園で拾ってきたものを飼育していた。当時小学生だった私はかっこいいという理由で、飼い始めた気がする。ペットショップで餌用のミミズを買ってきて毎日手ずから餌を与えた。飼い方なんてものは知らなかったけれど、餌は与えなければならないので、とりあえずペットショップにはいったのである。もちろん、すぐにカナヘビは亡くなってしまった。学校に行く直前だった気がする。帰宅してから埋葬しようと思った私は、そのまま学校へ行ってしまった。そのことを私は今でも後悔してしまう。帰ってきたとき、カナヘビの死体は半分で割れていた。肉の真ん中には蟻が列をなしていて、その列は家の玄関から外へと続いていた。しばらく呆然としてどうしていいのかわからなかった。ただ、自分のせいでこうなったということ意識だけが私の中に芽生えた。その夜、私は泣きながらカナヘビを土の中に埋めた。

 カマキリは家族でキャンプに行ったとき、虫網でとったものを持って帰り飼い始めた。私はこのカマキリが死ぬところを見ていない。カナヘビやカブトムシ同様、餌をやらなければカマキリも死んでしまう。私は何かの本でカマキリの餌はバッタという記述を見たことがあったので、近所の空き地で毎日ひたすらバッタをとってきてカマキリに与えた。カマキリの虫かごに生きたバッタをそのまま入れるのである。カマキリはその鋭い手足で俊敏なはずのバッタを最も簡単に捕まえて、その身を半分に折りながら、口を血だらけにして食べていた。その後悔が日常とは乖離しすぎていたためか、私は微かな高揚感を覚え、何度もバッタをカマキリへと届けた。いつしかカマキリは卵を産み落としていた。そのことにひどくパニックを覚え、どうしようなくなって、私は近所の空き地にカマキリを捨ててしまった。あのバッタたちの住処に。それがよかったことなのがどうか今でもわからずにいる。

 金魚は、夏祭りの金魚すくいでもらったものだった。貰ったままの袋に入れておくことはできず、もちろん生きているものを捨てることもできず、私は金魚を家まで持ち帰ることにした。親が飼育用の浄水設備のついた水槽を飼ってくれたので、その中で飼うことにした。餌はやっぱり毎日あげた。ミミズやバッタよりはマシだと思っていた。粉みたいなものを入れるだけだからね。気がつけば金魚はみるみる大きくなっていた。それが少し怖かった。水温のせいか、寿命のせいか、ストレスのせいか、何が原因だったかはわからないけれど、金魚たちは次の夏休みを迎えることはできなかった。亡くなった金魚は家の庭に埋めた。カナヘビの隣にしたと思う。1ヶ月後、祖母が金魚の死体をゴミに出しているのを見かけた。死体が分解されず、その場所だけ新しい花を植えられなかったから、というのがその理由だった。それを聞いたとき、カブトムシもカナヘビも同じように捨てられたのかもしれないと考えるようになった。

 この死体についての思い出は、それから常にぼくの周りを付き纏う。楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、奇形のカブトムシと体の分裂したカナヘビの死体が僕に語りかけてくる。声にならない声。それを無理やり言語化しようとするならば、「今夜も一人きりかい」と私を揶揄する声である。

 鳥の死体はどうなるのだろう。蟻が全て運ぶなんてことは不可能である。ならば、人によってゴミとして捨てられるしかない。病気を持っている可能性もあるから、きっと彼を連れて行く葬儀屋は手袋とマスクをしていることだろう。

 私にできることはない。ただ傲慢に悲しんでみせるだけが精々である。あとは写真に撮って記録していくことしかない。その行為に何の意味もないけれど。贖罪は終わる気配をみせない。